□ リズィという名の記憶の欠片 □

 

110年4月某日

春はお茶会の季節。立て続けに催される集まりには、いい加減ウンザリ。何度か理由をつけて同行を拒んだけれど、今回は規模が大きいだけにムリヤリ引っ張り出されてしまった。一番上等な服を着せられて、姉さん達の後ろをしぶしぶついて来たけれども。

「本当に素晴らしいお庭ですね」

「ええ、本当に。あの四阿の趣味の良いこと――」

つまらない。つまらない。

お上品な会話と出席者達の品定め。こんなところに来たくなかった。姉さんの付き添いなんて母さんだけで十分なのに。

「――こちらのお嬢さんも将来が楽しみな事ですね。本当に羨ましいですわ」

「まあ、ありがとうございます。でも、まだまだ子供で」

ナントカ夫人と母さんの空々しい会話が延々と続く。そろそろこの場から逃れたい。どうせわたしがいなくたって、続けられるでしょ。

だいたい今回は姉さんのお相手探しが目的で。という事は、参加者の大半は姉さんに釣り合うような人ばかり。そんな中でわたしみたいな子供に何をしろというのか。遊べる相手も話し相手もいないのだもの。つまらないのは当然じゃない。

私には関係のない会話が頭の上を通り過ぎていく。聞いているフリをしながら、私は黙ってお茶を飲んでいた。

 

はやく終わらないかな……今日は夕方までだったっけ。じゃあ晩ご飯もここで食べるのかな……この間みたいに辛いのじゃないといいけど……今頃の時期なら魚でいいのがあるから……姉さん、ちゃんと小骨とれるかな……あれ、この前犬にやろうと思ってた豚の骨、どうしたっけ……

 

「――なかなか良い趣味をされているお嬢さんですね。このような自然派の侘がおわかりとは、私と話が合いそうだ」

「まあ、そんな……」

いつのまにか、知らない人と母さんが私を挟んで談笑していた。ぼーっとしていたのを庭に見とれていると勘違いされたみたい。母さんがいつになくにこやかだから、きっとこの人は良い家柄の出なんだろう。そういえば着ている物も上等だし。

顔をあげたら目が合った。知らないおじさんは軽く微笑むと、母さんの方を向いて言った。

「この庭は池の向こうからの眺めが特に優れているのですよ」

微妙な雰囲気を含んだ沈黙。母さんはちょっとがっかりしたように見えた。

えーと……

 

「つまらなそうに見えたのでね」

おじさん改めリッシュオット卿は言った。

「私も退屈していたし、お仲間同士、散歩でもと思って声をかけたのだが」

ふかふかする苔の小道を並んで歩きながら、リッシュオット卿はいろんな話をしてくれた。すごく大きい人なのに、ちゃんと私の歩幅に合わせてくれた。きっとそのせいだと思うけど。全然知らない人なのに、私もなんだかたくさん話をした。すごく不思議。

変わっているけれど、でも面白い人だった。

 

111年5月某日

最近はつまらないことばかり。魔術の授業は面白くないし、姉さんも母さんもぎゃんぎゃんうるさい。せっかく咲いたと思ったバラは虫にやられちゃって、株から全部始末するハメになるし。

それに、このところリッシュオット卿のところへ遊びに行ってない。父さんにあまりうるさくするなと言われてしまったから。

つまんないの。

 

111年9月某日

今日もリッシュオット卿のところで「神」の話を聞いた。そういう考え方って変だけどすごく面白い。魔術にはできない事もできて便利。どうして誰もこの力を使う気にならないのかな。魔晶石いらないし、身分に関係ないから誰でも高レベルになれるのにね。

 

そういえば、「リッシュオット卿」という呼び方は堅苦しいから止めろと言われた。もう友達同士なのだから、名前を呼んでごらん、とも。

ダーネル様。ダーネルさん。ダーネル……。

なんだかむず痒い。だって友達というより、いろんな事を教えてくれる先生みたいなものだから。家柄も年齢も経験もずうっと上の人だもの。名前なんて気易く呼べない。

今は、まだ。

 

112年2月某日

「お前はまた……! そんな益体もないものを学んでどうするの!」

神学書を読んでいて母さんに怒られた。乱暴に机の上から取り上げられる。

「返して!」

「いいえ、これは没収します。こんなものを読んでいる暇があるなら、もっと勉強しなさい。いいですね」

止める間もなく、貴重な文献は母の手の中で燃え尽きてしまった。忌々しげに暖炉の中へ灰を振り捨て、母さんは部屋を出ていった。私は呆然として暖炉を振り返った。

ひどい。

あれは、先生が探してくれた数少ない資料だったのに。この時、私の中にあったいくつかの迷いが姿を消した。

 

112年3月某日

「ここで勉強させてください」

雨の中、手荷物を抱え、ずぶ濡れになって飛び込んできた私の第一声はこれだった。家族と大げんかして家を飛び出したものの、行く所なんてここぐらいしか思いつかなかった。そもそも15にもならない私に一人で暮らしていく術などない。きっと母さん達も私が家出したぐらいにしか思っていないのだろう。

けれど、私はもうあの家では暮らせない。あの人達とは道が違うとわかってしまったのだもの。

先生はそんな私をしげしげと眺め、ひとつ頷いた。

「ああ、いいとも」

「えっ、あの、住み込みでという事ですよ?」

「もちろんだ」

何も聞かずにあっさり承諾されてしまう。変に気負っていただけに、なんだか肩すかしを食らった気分。しどろもどろにお礼を言う私を軽く遮り、まずは風呂を浴びてこいと言われた。

使用人に案内された湯殿は家より断然広い。温かいお湯に浸かると、ほっとため息がもれた。

 

先生は優しい。いつでも私を穏やかに受け入れてくれる。でも、本当にそうなのかな。この頃、よくそんな事を考える。

――気にも留めていないから、あんなに優しいのかもしれない。

さっきとは別の意味でため息がもれた。

 

113年8月某日

最近、「神」という概念にすんなり馴染めるようになった。教師もテキストもないのにここまでできるなんて、もしかして私ったら天才? なーんてね。

研究が「普段と違う視点からアプローチできる」と先生も喜んでくれた。すごく嬉しい。

もしかしたら、文献にあった「ターンアンデット」が使えるかも。そう思ってこっそり近所の家の番骨に試してみた。

まだまだ力が足りないみたい。

 

113年10月某日

毎日散歩のついでに試した甲斐はあった。とうとう番骨を追い払えるようになったのだ。やっぱりコツがあるみたい。嬉しくて嬉しくてすぐに先生の所にとんで帰って報告したら、なぜか複雑な顔をして言った。

「おめでとう。これで一人前のクレリックだな」

それからお祝いにシーナリィカーテンを一巻きくれた。

あとで考えると、あれは笑いをかみ殺していたんだと思う。先生は何も言わなかったけれども、私が追い払った番骨の家主から苦情が届いていたらしい。

……ごめんなさい。考えなしでした。

 

114年5月某日

最近、先生は疲れた顔をする。また議会で揉めたのかもしれない。研究もこのところ進展が見えないし。そもそも先生は根を詰めすぎるきらいがあるから、私は時々心配になる。身体の疲れは呪文で癒せるけれど、心の疲れはどうにもならない。

私に、何かできる事があれば良いのに。

 

114年7月某日

連日の猛暑で窓の外は大変な暑さだった。もちろん屋敷内は丁度良い気温に保たれている。とはいえ、避暑に行ってはどうかと提案してもおかしくない気候だし、たまには先生も休むべきだと思う。だからそう言ってみたのだけれど。

「そうだな。では明日の朝出かけようか」

良かった。

「で、どこに行きたい?」

「え? あの……どこって」

「ゆっくりするなら高原地帯だが、この季節なら海も奇麗だろう」

「え、えーと」

私も行くんですか。そういうつもりじゃなかったのですが……。しかし、目の前にはじっと答えを待つ先生が。

「ゆっくりできる方がいいです」

「そうか、わかった」

楽しみだな、と言って先生は部屋を出ていった。……失敗した。

なんで断れなかったのかなんて、考えるまでもない。我ながら情けない事に。

 

しばらく前から、いろいろと耳に入ってくる事がある。曰く、「リッシュオット卿は年端もいかない妾を囲っている」というような。他にも類似した面白おかしい無責任な噂の類とか。消せないまでも肯定されないよう、せめて別行動をと思ったのにな。だって、ただでさえ迷惑かけているのに。先生にはきっと痛くも痒くもないんだろうけど、これ以上邪魔にはなりたくない。

 

114年11月某日

「最近、お疲れのようですね」

私は隣に座っている先生を見上げた。

「少しは研究を休まれてはいかがですか?」

「そうだな……」

ふむ、というように顎に手を当てる。

「まあ、いいだろう」

先生はカップを置いて立ち上がり、私の前に手を差し伸べて言った。

「おいで」

 

115年2月某日

少しだけ先生に近づいてわかった。昔、池の端で話したこと。

『なにを見ているのですか』

『もう一人の自分を』

その目は足元を見下ろしたままで。

 

『水面に映った私は私だろうか』

 

――その意味が。

 

115年5月某日

その晩、ちょっと話があると呼ばれ赴いた書斎で、何となくわかっていた事を聞かされた。

「早いもので、現在の地位に就いて15年余りの時が流れた。その間、私はこの身体に対して色々と試してみた。結果は何も出て来なかったが、やはりしっくり来ないモノを感じる。その感じは、私としての記憶を持ってから今までずっと変わらない。いやむしろ、強くなっているような気がする。何かしなければならない。何か忘れている気がする。もどかしい。はっきり言えば、今の私は私ではない。その想いは強くある」

そんな事知っていた。だから先生が引いた線を踏み越えられずにいたのだもの。身を寄せれば受け止めてくれるけど、抱き返してくれる事はないとわかっているから。

「この退廃と堕落が渦巻く都市での生活や、貴族同士の勢力争い、幼稚な駆け引きにも正直疲れた。幸い金には困っていないので、どこか地方にでも引き籠もって、本格的に『自分探し』の研究でもやっていこうかと思うが……こんな莫迦げた事を言い出す私に、お前は付いてきてくれるか?」

先生がいつも通り穏やかに問いかける。私は「はい」と答えた。だって、他にどんな返事を返せるというのだろう。

いつもそう。答えを知っているくせに、わざと選択を委ねる。

「そうか……ありがとうリズィ」

微笑んで、軽く頬を撫でられた。

 

先生はずるい。

 

115年5月某日

辺鄙で危険な『恵みの森』に工房を構えて5日。使用人のいない生活にもだいぶ慣れた。唯一の難点は食事の用意。二人とも研究にかかりきりだから、自然と変則的になってしまう。それ以外はまあなんとかやっていけそうだった。

二人だけのがらんとした研究施設はなんだか寂しく感じる。先生も少しは同意見らしい。最近よく朝寝坊する。

 

115年6月某日

定時確認の最中、外に行き倒れを発見した。蛮族かな? 先生に連絡してから、右のボーンゴーレムを連れて様子を見に行く。少し離れたところから探知呪文をかけてみた。反応なし。近くで見たら着ている鎧や服がズタズタになっているのがわかった。もう事切れているのかもしれない。

念のため足で軽く小突いてみた。やはり動かない。ただの屍のようだ……。と思ったら生きていた。

「この辺りにお住まいの方でやんすか。あっしは蛮族の村出身でロルジャーカーと申しやす。怪しい者じゃありません。どうぞあっしを雇ってくだせい!」

上体を起こすなり、突然自己紹介を始める男。いきなりそんな事を言うなんて、力一杯怪しいと思う。こうして見るとかなりひどい怪我をしているようだけど、これだけ喋れるならたいしたことないようね。

それにしても一体何を考えているのやら。村の掟でも破って放逐されたか、それともこの工房に含むところがあるのか。

男とゴーレムを残し、先生の指示を受けに工房へ引き返した。

「そうだな、雇ってみようか」

相変わらず先生はあっさりと決定をくだした。

「大丈夫でしょうか」

「雑用が一人欲しいと思っていたところだ。なに、心配せずとも二心を抱けぬようにすればいい事だ」

「それもそうですね」

 

採用を伝えると、彼は米つきバッタのようにお辞儀を繰り返して礼を述べた。その度に異臭が漂ってきて閉口する。目の前でぱたぱたと手を扇いだ。蛮族なんだから仕方ないわね。まずは風呂に入ってこの不潔さを何とかしてもらわないと。傷に汚れ水が入っても困るので治癒の呪文をかけておいた。

 

115年12月某日

所長の顔色が冴えない。徹夜明けだけとは思えない憔悴の仕方だ。

「どうなさったのですか。ご気分でも……」

「ああ……」

やっと私に気づいたという顔でこちらを向いた。

「昨晩実験に失敗してね。少々……。やはり自分を被験者にするのは、あまり得策ではないようだ」

「それはつまり、もう一人が?」

「そうだ。危うく呑まれそうになったよ」

はっとして私は思わず所長の袖を掴んだ。

「所長、もっとご自愛ください。お願いですから……」

「わかっている」

掴んだ手の甲を宥めるように軽く叩かれる。私はそっと手を放した。行き場を無くしたような気分で、束の間空を掻いたその手に所長の手が重なる。少し強く握られて、何故かひどく安心した。

「さすがに懲りたからな。これからはモンスターで臨床データをとるつもりだ。幸いこの辺りはその手のものが豊富だから、すぐに必要数は揃うだろう」

「……そうですね。ピクニックがてら、お弁当を持ってモンスターハントというのはどうでしょう」

「それはいいな」

所長は少し笑ったようだった。

 

116年6月某日

陰日向なく働くロルジャーカーに慣れてきた頃、突然所長が奥に部屋を移すと言い出した。半年前の実験以来、もう一人が活性化しているので、安全策をとりたいからだという。

「お前には少し淋しい思いをさせるが……仕方あるまい。何か起きてからでは遅いしな」

「はい……」

少しじゃない、とは言えなかった。

「私に何かあったらリズィを頼むよ」

何かって、なに。

「合点でさ。あっしの命にかえてもお守りしやす」

隣で神妙に話を聞いていたロルジャーカーは、威勢の良い返事を返した。

 

私は所長を尊敬しているし、いつでもその幸福を願っているけれど。こんな時、無性に絞め殺したくなる。

 

私はあなたの何? ただの愛玩物? 使い勝手の良いフレッシュゴーレム?

 

いつもいつもいつも、ただ側にいるだけで、何もさせては貰えない。こんなに近くにいるのに、頼ってもくれない。どんなに心を傾けても、あなたからは何も返ってこない――

 

それでも、私は。

 

116年11月某日

所長が奥に引っ込んで以来、確実に夜が長くなったと思う。そのせいか、最近はロルジャーカーとよく話すようになった。この日も食堂で他愛ない話をしていた。

ふと、会話の切れ目に思った。こうしてだんだん、所長のいない事に慣れていくのだろうか、と。

「なんか寂しい……」

「あっしがいますよ、姐さん!」

がばっ、と勢いよく両手を掴まれた。え? と思って見返すと、

「ああっ! すみません、つい!」

彼は慌てて手を放した。

「……ありがとう」

それがどういう意味にせよ、慰められたのは事実だった。

 

117年1月某日

我ながら莫迦な事をしていると思う。

寂しかったのは真実。蛮族とはいえロー君はそこそこ守備範囲内だから、こういうのも悪くはない。でも、彼の好意につけ込んでいるのも確か。

 

無駄だとわかっているのに、私は何かしら反応がないかと背中で聞き耳をたてる。

――そして予想通り、何の手応えもない。

……ほんとにバカ。

 

117年6月某日

「いい人材が見つかったよ」

所長が新人を連れて戻ってきた。同じ年ぐらいの彼女はオルフェア・メリシェン。こういう研究に携わった事はないらしいけれど、人手が絶対的に不足しているから、彼女でもできる事はたくさんある。それに、わたしよりもずっと頭も良さそうだし。

所長は彼女を引き合わせると、すぐにまた出かけてしまった。

「こんなすぐにですか? 少しお休みになられてからの方が」

「いや、死んでしまってからでは遅いからな」

なるほど、どうやら次の要員は奴隷か蛮族らしい。

所長を送り出した後、応接室に待たせてあったオルフェアを案内した。

 

117年6月某日

オルフェアが来た翌々日、所長が剣奴を連れて戻った。その物腰からして、昔はそれなりの身分だったのだろう。今は見る影もなく汚くて臭かったけれど。挨拶もそこそこにすぐさま風呂に行かせる。元貴族の出なら、自分でお湯ぐらい出せるでしょ。

アルフレッドソンという名の彼は、剣奴として生き残ったのはいいが、どっか頭の配線が切れてしまったのだろう。奇天烈な性格をしていた。紹介されたオルフェアにいきなり一目惚れして、来た当日から猛攻を開始したのだ。

ああいうタイプに押しの一手は逆効果だと思うけど。まあ、人それぞれだし。

 

117年7月某日

アルフレッドソンがうざったい。ちょくちょくオルフェアを訪ねて研究室にまで押し掛けてくるので、出入り禁止にした。でもそれが更なるうざったさを招いたような気がする。部屋の前で根気よく彼女が現れるのを待つ姿が気色悪い。おまけに、このところ部屋の前でオルフェアに捧げる愛の歌を唄っている。

大迷惑。

 

117年10月某日

オルフェアは最近ノイローゼ気味。何度「ノー」と言っても、アルフレッドソンには通じないらしい。夜もよく眠れないというので、安眠用に香油を調合してあげた。

 

117年12月某日

所長の提案で、最近めっきり窶れたオルフェアの気分転換も兼ねて、ピクニックに出かけた。ちょっと寒いけれど、こういうところで熱いお茶を飲むのもいい。冬には珍しいくらいのぽかぽか陽気なのは、きっと所長のおかげでしょう。ゆっくり話ができるように、オルフェアとアルフレッドソンを残し、私達はぶらぶらと周りを散策した。

大変有意義な時間を過ごせたようで、帰る頃にはオルフェアも久方ぶりに笑顔だった。それを見るアルフレッドソンはさらに笑顔だった。

よかった。

 

118年6月某日

夜、ロー君から緊急警報。近くで戦闘が発生しているとの事。追われているらしい男女二人連れが監視装置に映っている。蛮族同士の小競り合いとも思えない。

「ほう、女の方は鷹族だな」

連絡を受けて現れた所長が、興味深げに頷いた。所長は面白い研究対象を見つけた時、こんな風な目をする。

「しかも男は10’ソード使いか。……よし、あの二人を助けてやりなさい」

加速呪文の援護を貰い、工房の外へ出た。追ってきているのはアンバーゴーレムとそこそこ使えそうな剣奴が何人か。まあ、たいしたことはない。所詮は蛮族だし。

「ここは私有地です。即刻立ち退きなさい」

明かりを投射して一応形だけ警告をしてあげた。当然拒否される。こちらとしても、もとより連中を生きて返すつもりはない。

戦闘はかなり一方的に展開したものの、リーダーを討ち洩らしてしまった。このまま逃げられると大変まずい事になる。私は工房を振り返って叫んだ。

「所長!」

その声に応え、所長の魔法が炸裂した。メテオ・スォーム。

……あの戦士は跡形もないだろう。ついでに地形も大分変わった。

やりすぎです、所長。

 

追われていたせいもありずいぶん警戒されたが、所長の説得で二人はここに身を寄せる事になった。脱走奴隷のダルフェリルと鷹族のジルウィン。変な組み合わせ。ぶっきらぼうなところが似たもの夫婦なのかも。

人数が増えたので部屋割りを変えた。夫婦者が一部屋、男二人で一部屋、私とオルフェアで一部屋。ずいぶんにぎやかになったものね。

 

118年6月某日

懇親会も兼ねて、ピクニックに行っておいでと所長が言うので出かけた。良いお天気なのは、やっぱり所長のおかげなんだろう。近所の蛮族共が襲ってきたのはご愛敬。新顔の実力も見られたし話も聞けたから、まあまあの一日だったかな。

ただ、連中がダルフェリルを見知っていたのが気になる。それほど有名なら、あれは外に出さない方がいいかもしれない。

 

118年6月某日

またしてもダルフェリルの追っ手が現れた。今度は彼の父親の魔術師。その境遇に少しだけ親近感が湧く。私は捨てられたわけじゃないけれど、自分を認めない家族がいる辛さはよくわかるから。

確かに父親の方にも言い分はあった。妻と子が奴隷階級に落とされる瀬戸際で、それは全てダルフェリルが脱走したせいだという事だし。大切なものを守るためには、誰だって必死になるのは当たり前。

でも、所長が彼とジルウィンを手元に置くと決めたのだ。だから、あなたには悪いけれど、死んでもらいます。

 

大分この辺りも騒がしくなってきた。ほとぼりが冷めるまで、これからはあまり外に出ない方がいい。

 

118年9月某日

夕方、魔力の供給が途絶えた。最近ちょくちょく落ちていたから予想はしていたけれども、今度は完全に魔晶宮が止まったらしい。いきなり真っ暗だ。

「ライト」

まずは明かりをつける。わたしは自力で魔法が使えるが、他の何人かはそうもいかないだろう。とりあえず様子を見に行くことにした。

魔力を絶たれ、ただの金属板となった扉を「軽く」してから部屋を出ると、男部屋からロー君の叫び声が聞こえてきた。ガンガン扉を叩く音もする。可哀相なので扉を開けたら、半泣きになって縋り付いてきた。そんなに怖かったの?

 

「どうやらこの地区の魔晶宮は停止したようだ」

皆が食堂に集まったところで、所長が言った。

「蛮族共に襲われたのか……。こんなこともあろうかと、小型魔晶宮の設置をしておいたのだが、明日にならないと使えないのだ。すまないが、今日の所は皆でかたまって暖をとってくれ」

言うことだけ言って所長は自室に戻ってしまった。……どうせ暖をとるなら、一緒に行きたかったのにな。追いかけることもできないのが悔しい。

仕方ないから手近にあるもので間に合わせる。

怖い思いをした反動からか、今日のロー君はずいぶん甘えたがりだった。

 

118年9月某日

容赦なく扉を叩く音で目を覚ます。まだ明け方にもならない時間。こんな変な時間に誰なの。

ガウンを羽織って扉を開けると、何故かジルウィンがにこにこしながら立っていた。

「……なに?」

「こんな時間にすまんが、これを読んでくれ」

ずい、と差し出された数枚の羊皮紙。冒頭に「アルフレッドソン及びオルフェアに関する報告書」とある。

――そこには、アルフレッドソンがオルフェアを押し倒す様子が克明に綴られていた。

 

……「オルフェアさん!!」

というアルフレッドソンの声と同時に、衣擦れの音とベッドがきしむ音がした。状況からして、包帯を巻いているオルフェアの手を、アルフレッドソンが握りしめたと見られる。その約3秒後にアルフレッドソンの告白あり。台詞は直接的だった。

「あなたが好きです!!」

オルフェアの息をのむ音がした後、しばらくの静寂。おそらく見つめ合っているか、アルフレッドソンの凝視を受けてオルフェアが赤くなっているかのどちらかと思われる……

 

私はその場で爆笑した。可笑しすぎる。ジルウィンにこんな一面があった事も、あの二人の遣り取りも。あんまり可笑しかったので、ロー君を叩き起こして読ませてしまった。

オルフェアには悪いけど、アルフレッドソンとくっついてくれて助かった。こんな狭い工房の中では、人間関係はすっきりしていた方が良い。このままオルフェアが押し切られてくれたら、アルフレッドソンの奇行の数々も少しは減るでしょう。

いっその事、3組3部屋になるように仕向けた方がいいかもしれない。

 

118年12月某日

もうすぐオルフェアとアルフレッドソンが結婚する。とうとう諦めがついたらしい。アルフレッドソンの押し切り勝ち。身内だけのささやかなものだけれど、ちゃんと式を挙げて祝うことになった。どうせだからと、ジルダル夫婦も一緒に式をする。

祝い事は好きだ。身近な人達を、二組も祝うのだもの。嬉しいし、楽しみしている。それは本当。

 

式に必要な指輪や衣装を買いに行く未来の新郎が、ふと気づいたように尋ねた。

「ロルジャーカーはいいのか?」

一瞬、ロー君は私を見た。

私は悪気無くそんな事を尋ねた男を、想像の中で刺し殺した。

「いえ、とんでもない。あっしはそういうつもりはないんで」

ふるふると首を振って答える。いつも通りの口調で、明るく否定の言葉を紡ぐ。私は黙って曖昧な笑みを浮かべた。

――ごめんね。

 

118年12月某

「おめでとう。末永くお幸せに」

二組の夫婦に花びらを振りまきながら祝福する。今日は結婚式。新しい門出に相応しい、抜けるような青空だった。二人の新婦は美しく、それを見つめる新郎達はますます惚れ直したようだった。

身内だけの簡素な式と祝宴だったけれど、これが幸せなんだと実感できた。まるで新しく家族ができたような感じ。

このままずっと皆で楽しく暮らしていけるといい。

 

119年12月某日

妙なお客が来た。魔術師なのに、どこか蛮族のような埃臭さを感じさせる。その人は所長が何かを頼むために呼んだのだった。最近所長は何かを探しているらしい。詳しくは教えてくれないけれど。

時々所長が遠く感じられてならない。

 

120年1月某日

この前の魔術師が再び現れた。一人の少年を連れている。ねこみみフードを被った子供だ。その胸には剣を象ったペンダントが。

奇妙な笑みを浮かべ、所長が言った。

「今日から彼もここの一員になる。研究員として働いて貰うので、そのつもりで頼む」

「アルナハトと言います。よろしくお願いします」

 

……それが、全てのはじまりだった。

 

120年1月某日

新人のアルナハトは、研究員というよりむしろ被検体としてスカウトされたようだ。実際、彼には雑務程度の仕事しか任せられない。

「アルナハトには、私と同じ『匂い』のようなものを感じるのだ」

所長はそう言って、しばしば彼と二人だけで実験室に籠もるようになった。研究の方は進んでいるみたいだけど、あまり根を詰めては身体に障りますよ、所長。

 

120年1月某日

所長が変だ。虚ろな、けれど熱っぽい目で独り言を呟く。

時折、「ランバート」、「アレスト」、「アクアリュート」など、私の知らない名前が聞き取れた。……もしかして、「もう一人」の力が強くなっているの?

身震いするほどの不安に襲われる。けれど、私にはどうする事もできない。どうすればいいかもわからない。

ただ、ひとつだけ確実な事は――。

アルナハトが来てから、何かが狂い始めたのだ。

 

120年1月某日

ロー君は所長の用事で明日から出かける。このところ外出が多い。

「何か入り用な物はありやすか」

「んー、そうねぇ……」

香油に使う原料を頼もうかな、と思ったその時。

 

『――て……れ!』

 

どん、という物理的な衝撃にも似た、心と心の接触。

反射的に悲鳴をあげていた。

 

『――けて……くれ!』

 

痛い、痛い、いたい、イタイ。

心が、引きちぎられる。息が出来ない。

 

『リズィ……!』

 

頭に直接響く声。死の直前にある者の、絶望と恐怖と痛みが伝わる。あまりに強く心を掴まれて、ほとんど自分の事のよう。真紅と黒に彩られた苦しみを彼と分かち合い、共に悲鳴をあげる。その苦痛の共有に奇妙な快感を覚えながら、私は必死になって応えを返した。

「私は……ここです。ここに、居ます」

その途端、私はそこから切り離された。もう直接的な痛みはなかった。ただ、明瞭になった彼の声からその苦しみを感じ取る事が出来るだけで。

 

『……助けてくれ、私が私でなくなってしまう。もう時がない。私を、殺して欲しい。

私の中の何かが、目を覚ます。それに私の研究を見せてはならない』

 

だんだん声が遠くなる。くぐもって細くなる、彼の声。

 

『私を殺して、私の研究を無きモノにして欲しい。奴に渡してはならない――』

 

ぷつり、と糸が切れるような感触。

真っ白で空虚な静寂。

 

どれほどそうしていただろう。気が付くと、目の前にロー君がいた。

「姐さん……」

彼にも聴こえていたのだ。それは顔を見ればわかった。

「姐さん……」

どうしてそんな目をするの。それはあなたも悲しいから?所長がいなくなってしまっ……

 

嗚呼。

 

私は目を瞑った。立っていることもできず、床に頽れる。そんな私をロー君が慌てて支えた。

「姐さん!」

「もう、だめかもしれない」

ずっと怖れていた「その時」が来てしまった。そして、あの人はもういない。いなくなってしまった。それなのに……

「しっかりしてくだせぇ!」

ロー君が肩を掴んで揺さ振り、いつになく強い口調で言った。

「姐さんがやらなけりゃ、誰が親方の願いを叶えるんでやすか。誰が仇をとるんでやすか。……大丈夫です、あっしがついていますよ」

「……そう、そうね。その通りだわ」

彼の言うとおりだ。私が叶えるべき願いなのだ。こんなところで嘆いている暇はない。ちゃんと考えて手を打たなければ。

あの人の、最初で最後の頼みなのだから。

「……どうすればいいと思う? 相手は強力な魔術師よ」

「そうでやんすね――」

 

その晩、私たちは一睡もしなかった。

 

120年1月某日

その日から、所長は変わられた。

口数が減った、食事を共に取る回数が減った、ふさぎこんで何か考える時間が増えた。

傍目からは、判らないちょっとした変化。他の誰も気がつかない、些細な変化。

けれど、確実に何かが変わった。所長であったものから見知らぬ何かに。

 

私は日に三度、スクロールを開いて中を見る。今日もロー君からの返事はない。手頃な蛮族が見つからないのだろう。

――早く、早く戻ってきて。手遅れになる前に。奴が全てを手に入れる前に。

 

120年2月某日

表面上は何も変わらぬ日々が過ぎていった。けれど、それももうすぐ終わる。

――明日、ロー君が戻ってくる。

 

120年2月某日

ロー君は袋一杯にお土産を抱えて帰ってきた。おかげでその晩は、いつもの味気ないフードクリエーターではなく、ちゃんと料理した夕食が出された。「奴」が食堂に現れなかった事に少し安心する。ロー君はうまく薬を混ぜられたようで、皆眠たそうな表情だ。私は風呂に入ると言って食堂を出た。

部屋へ戻ってみると、いくつかの包みと一緒にメモが置いてあった。

『今夜決行』

そう。ならば私も準備を始めましょうか。

私は目の前の包みを慎重に開いた。思った通り、鉛で封をされた小瓶が現れる。注文通りの物を探し出してくれたようだ。実験室から持ち込んでおいた器具の上に、護身用の細い短刀を横たえる。

まだ家にいた頃、私は高貴な子女のたしなみとして短刀術を習わされた。神官の身には不要のものだったから、今まで使ったことはない。当然だ。使えば即座に神の寵を失う。

だからこそ、最後の切り札になり得る。

手袋と臭気除けのマスクを着け、私は細心の注意を払って封印を破った。ゆっくりと刃の上に雫を垂らしながら思う。

私はきっと、神の御許には逝けないのでしょうね。

 

袖の中に短刀を差し、かねてより打ち合わせてあった通り食堂に向かう。まずは魔晶宮を壊さなければ。

たとえ「奴」が自力で魔法を使えるにせよ、この異変に不審を感じて見に来るはずだ。もうすでに蛮族共は侵入しているはず。うまくぶつかってくれれば良し。駄目でもこの破壊工作の言い訳になる。

どちらの場合もロー君が危険なのだが、それは考えないことにした。それに、これは彼の立てた作戦なのだ。きっと何か手があるのだろう。……きっと。

私は魔晶宮の基礎部分を破壊した後、蛮族っぽく見えるよう辺りを軽く荒らしておいた。

 

魔力を失って重くなった扉を開けようとすると、廊下から明かりが漏れてきた。まさか蛮族が?そう思った矢先、まるで普段と変わらぬ軽さで扉が開いた。思わず転がり出た先には、眠っているはずのアルナハト、オルフェア、そしてアルフレッドソンの姿があった。

どうしよう、こんなに早く薬が切れるなんて計算違いもいいところだ。

私は内心パニックを起こしていた。なんとか食堂から出てきた言い訳を考えようとして、咄嗟に蛮族が侵入したらしいと告げる。そのせいで魔晶宮も破壊されたのだと。

言った瞬間後悔した。だが、もう遅い。

案の定、オルフェアは不審を抱いたようだ。仕方ない。なんとかここから建て直しを図らなければ。うまい具合に彼女たちは食堂を見に行ってくれたし、アルナハトだけでも……。

 

結局誘導したにはしたが、奥の部屋に通じる隠し扉の前で戻るハメになった。いきなり突き上げるような激しい揺れ。周り中が軋みをあげていた。誰かが大地を動かす呪文を発動させたのだ。このままいけば工房全体が沈む。騒ぎの中叩き起こされたジルウィン達は、姿を見せるなり問答無用で逃げ始めた。他の皆もよろめきつつ後に続く。

そう、逃げなさい。あなた方まで巻き添えになる事はない。

ひとり奥の扉へ向かったその時、

「扉を開けちゃ駄目だ」

ジルウィンの不可思議な制止。開けたら良くない事が起こる、と神託をうけた者に特有の声音でそう告げられた。……鷹族は「神の目」。これはその力の一端なのだろうか。迷うわたしに、とにかく出口の確保が先だとアルフレッドソンが言った。ここで押し問答してもしょうがないのでひとまず従うことにした。

 

玄関へ向かい始めてすぐ、正面の曲がり角から人影が現れた。「所長」だった。あちこち血の滲んだローブを纏い、こちらに向かってゆっくり歩いてくる。そう、蛮族達もある程度働いてくれたのだ。わたしはここで言うべき台詞を叫んだ。

「所長! ご無事で!」

「……工房内に蛮族の侵入を手引きした者がいる」

無表情に告げる。一瞬息が止まった。ロー君が……バレたの?

私には所長と対になっているプロテクション・アミュレットがある。だから心を読まれる事はないけれど、ロー君はただの蛮族。ESPなどかけられたらあっという間に全ての計画が漏れてしまう。だから用事に託けて、ずっと外で蛮族探しをしていたのだ。

でも、もし「奴」と対峙してしまったら? 蛮族を手引きした理由を探ろうとしたら? 当然、私が関わっているとわかってしまう。

……今こそ、この短刀を振るう時なのかもしれない。私は袖の中で、そっと柄を握りしめた。

だが、「所長」は私でなく、私の前に立っているアルナハトを見ていた。哀しみと憐れみを込めた目を向けている。

「ついに正体を現したな、アルナハト。いや、その内に眠る邪悪な者よ」

「え、え?」

少年は何が何だかわからないという顔をした。

「驚くのも無理はない。お前の中には、もう一つ邪悪な力を持つ人格が眠っていたのだ。私はそれを押さえようとしていろいろ手を尽くしてみたのだが、力が及ばなかった……。奴は手始めに私を殺そうと内通者を操り、蛮族を引き入れたのだ」

「そ、そんな僕は……?!」

ますます狼狽えるアルナハトから一歩離れ、私は探知呪文を唱えた。端からは「所長」言葉を確かめる為、アルナハトに魔法をかけたように見えるはずだ。だが、わたしの目的は「奴」にあった。

――本当に、いなくなってしまったのか。今目の前にいるのは誰なのか。わたしは確かめたかったのだ。

 

そうして私は冷たい現実をその目で見た。

 

「あなたは、何なの?!」

私は驚きも露わに後退った。背中が廊下の壁に当たる。「奴」が邪悪だと確認出来た事を隠す意味もあるが、アルナハトに驚いたのは本当だ。

「なぜ体中から、魔力を発しているの……」

すでにアルナハトは半べそだった。そうだろう。謂われのない罪を着せられ、糾弾されているのだから。

「全てはもう一人が為した事だからお前が知らないのは当然だ。だが、邪悪な人格はどうしようもないほど大きくなってしまった。もはや押さえることはできぬ。もう、殺すしか道はない。……だが彼に魔法は効かない」

ひきつった声を上げるアルナハトを見つめ、悲しげな表情を浮かべる。

「すまないアルナハト。……リズィ、頼む」

この言葉で、本当に所長はいないのだと思い知らされた。所長が私にこんな事を言うわけがない。絶対に。

躊躇う素振りを見せている間に、いつのまにか皆がアルナハトを殺すという話になっていた。またしてもジルウィンが不可思議な態度で「殺さなければ」と断定したのだ。全てを見透かすような目で。

確かに彼がきっかけで所長は「奴」に消された。確かに彼は得体が知れない存在だ。けれど、だからといって彼を殺してどうなるというのか。「奴」の言うことなど、一から十まで作り事なのに?

「ぼ、僕は死にたくない!!」

悲痛な叫びをあげ、アルナハトが目の前の戦士達にウェブをかけた。それをするりとかわし、ジルウィンとダルフェリルが反撃に出る。か弱い少年をなぶり殺しにする光景に耐えられず、私は思わず叫んだ。

「なぜ彼を殺す必要があるの」

「ダーネルを殺せる剣になるからだ」

振り向いた彼女の目には真実の光があった。彼女は「所長」が誰だか知っているのだ。そして、「奴」を殺せるのなら。

私はアルナハトに呪縛呪文を放った。

 

いつの間にか燃えだした廊下一杯のウェブの前で、アルナハトは瀕死ながらも辛うじて立っていた。炎の向こうから遠くアルフレッドソンが「奴」を倒したという声が聞こえる。しかし、アルナハトが化身した「剣」でないと駄目なのだという。そう、「奴」はまだ死んではいない。

「リズィ、止めを刺せ」

「奴」が復活しない内に「剣」を手に入れたいのはわかる。位置的にも私が手を下すと効率がいいのもわかる。けれど、私は今攻撃できる呪文を持っていない。もちろん武器だって持っていない。あるのは袖の中に忍ばせた短刀だけだ。それで人を殺したら、私は神の道を捨てる事になる。「奴」を仕留めるためならその覚悟もできた。でも、アルナハト相手では……。

「……私は、彼の為に自分の生き方を捨てるつもりはない」

「お前の生き方の為に死ぬ気は無い」

言い放ったジルウィンの剣がアルナハトを貫いた。哀れな少年は、みるみるうちに一振りの剣へと姿を変えた。刀身にルビーの挟まった、見るからに魔力を帯びた長剣――奴を殺せる剣に。

だが、私が手を伸ばすより早く、ジルウィンが剣を掬い上げるように掴み取り、炎の中へと走り込んだ。私は必死になって後を追った。一瞬煙の中でその姿を見失う。

 

――やめて! 奴を殺すのは私よ!

 

鎮火しつつあるウェブの向こうで、きらりと紅い光を放ち、剣が振り下ろされた。

 

 

工房が再び揺れていた。奴が死に際にかけた呪文が発動したのだ。ちょうどいい。所長は工房を破壊してくれと言っていた。奴は死んだけれど、所長がいないのに工房を残してもしょうがない。

「リズィ!」

呼ばれて、手を差し伸べられる。私はゆっくりと首を振った。

「私は、ここに残る」

ほんの少しためらって、頷いた。わかってくれたのだ。わたしの選択を。だが、その後ろからロー君が必死の形相で駆け戻ってきた。

「姐さん! 姐さんが残るならあっしも残りやす!」

「奴」に蛮族共々殺されたと思っていたけれど、ロー君は生きていた。なんとか「奴」を倒そうと、ずっと隙を窺っていたのだという。ほんの少しだけ心が軽かった。彼が生きていてくれて本当に良かった。彼だけでも生きていてくれて。

「……ごめんね、ロー君」

それは、ずっと言いたくて、でも言えなかった言葉。

私はロー君を押し止めているダルフェリルに目を向けた。

「彼も連れ出してあげて」

暴れるロー君を引きずり、彼らは走り去った。揺らめく炎を透かして、皆の背中が角の向こうに消えるまで、そして消えた後も、私はそこに立ち尽くしていた。

 

 

そうして、今は微かに燻る音だけが聞こえる。そこには誰もいない。

「――やっと、静かになりましたね、ダーネル様……」

ここに、二人で来た頃のように。

私は足元に横たわる彼を自室に運んだ。寝台の上で、その無惨な姿を出来るだけ清める。全てを終えて、私は彼の枕元に跪いた。

「私、あまりお役に立てませんでしたね。奴を殺したのも、工房を潰したのも、みんな別の人がやりました」

暗い部屋の中にいると、不思議と気持ちが落ち着く。

「初めて私を頼ってくれたのに、ちゃんとできなくてごめんなさい」

シーツの上に両腕を乗せ、その上に顔を預けた。なんだか昔、こんな事があった気がする。勉強のすすみ具合を報告している私を、ソファに座って見下ろしている彼。

「何もできなかったけれど。せめて、一緒にいさせてくださいね」

 

暗闇に誘われて眠りという小さな死が緩やかに舞い降りる。

――目が覚めたら、きっと彼が毛布を片手に言うはず。「ベッドで寝なさい」って……

 

 

(『ヴァイオラの徒然日記』より ◆ 2003年1〜2月初出)

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